川上弘美の「センセイの鞄」の「月と電池」という章と多和田葉子の「かける」を読んで、日本文学の言葉遊びが面白いと思いました。
「月と電池」を読んでいたとき、なぜ作中の月子が先生のことを「先生」や「せんせい」ではなく「センセイ」と呼ぶのか疑問に思いました。
最初は、月子が先生を真面目な先生だと思っていたからだと思っていました。カタカナの「センセイ」の形はひらがなの「せんせい」の形より四角くて硬く見えるので、先生の厳しさを象徴していると思いました。一方で、月子は先生が教える国語という科目にはあまり興味がないとも言いました。 だから、月子は失礼な気もするが、先生のことをあまり教師として見ていないので、「先生」とも「せんせい」ともきちんと呼びたくなかったのではないかと思いました。この章の英語訳も読みましたが、月子が “Mr.” や “Sir” ではなく “Sensei” と呼んでいたと述べていました。だから、月子が「センセイ」を教師として見ていないのではないかとさらに思いました。あるいは、月子は国語が熱心ではなかったので、「センセイ」を漢字で言うのが嫌だったのです。
でも、読み続くと月子が「センセイ」の本名を忘れていることに気づきました。だから、自分も先生も恥ずかしくないように月子が「センセイ」は先生の本名として呼んでいなければなりません。しかし、授業中に、この小説は恋愛ジャンルであり、彼女は年齢差と過去の上下関係を埋めるために「センセイ」は先生の本名として呼んでいるのかもしれないと思いました。言葉遣いを変えたり、言葉遊びを使うだけで、読み進めていくうちに読者は登場人物や内容に対して異なる解釈をすることができることに気づきました。
もう一つ注目すべき点は、川上弘美は「月と電池」章のタイトルと主人公の名前にも言葉遊びをしていることです。 この章のいくつかのシーンは夜に設定され、月が描写されていますが、私は主人公が月子と呼ばれ、「月」という単語が含まれているのは面白いと思いました。
多和田葉子の「かける」はすべて言葉遊びでした。読んでいて、「満腹すると眠くなって、書ける」と「賭け事がしたい」など言葉遊びを使っていることに気づかなかった部分もあるので、多和田葉子の言葉遊びが上手いに気づきました。たくさんの言語には同じ単語でも口調と会話の文脈によって異なる意味を表現できますが、日本語のように同じ発音で書き方が異なり、全く違う意味を持つ単語が存在する言語はほとんどありません。他の言語ではこれほどスムーズに言葉遊びができるとは思えないので、日本語の独自性を示していると思います。
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