あの谷崎潤一郎は32歳のとき、『異端者の悲しみ』という自伝的な中編小説を発表した。章三郎という名前の傲慢な大学生が自家撞着を繰り返す日々を過ごす内容なのだ。例えばこんなシナリオがあった。
章三郎はプライドが高く、自分の妹にアドバイスをもらうことさえ嫌いだった。なので妹の蓄音機を使おうとして操作がうまくいかなかったとき、恥を忍んで妹に操作方法を聞いたところ、やはり後悔して妹のことが一層嫌いになった。
自伝的、というのは、この小説は谷崎潤一郎自身の青年時代の批判、反省、そして告白だったのだ。
この章三郎はロシア文学における「余計者」に似ていると、誰かがそれを卒論のテーマにしたくクラスで発表した。
余計者というのは、学生といった知識人の身分にもかかわらず、馬鹿らしいことをやり尽くす人間のことなのだ。自分のやったことを何度も後悔し、結局どうすればいいかわからないまま同じミスを繰り返し、自分も他人も何もかも嫌いになってしまった人間なのだ。「余計者」より「余計野郎」だな、とプレゼンを聞いた私は思った。
『異端者の悲しみ』からなんとなく中国人の小説家の魯迅の『吶喊』を連想した。例えば「孔乙己」という渾名の人は、章三郎と同じ知識人で貧しい生活を過ごしていて、自分も間違っていると思いながら犯罪したり人に迷惑をかけたりするような哀れな人間だ。また「阿Q」という名の村人は知識人ではないが、傲慢なところや、プライドが傷つくとすぐ人を恨んだりするところは驚異的に章三郎に似ている。これら余計野郎どもの忌ま忌ましい性格は、みんな貧困や社会階層といった問題から生まれたものだから、恨むべきと思う同時に同情もしたくなるではないか。
お笑い芸人・若林正恭は自身のエッセイで、他人を嫌ったり嘲笑ったりするような人間は、自分のことを一番恨んでいると主張して、かつての自分もその1人だったと告白した。このように、余計野郎は未だに現代社会に潜んでいるのではないかと私は勘付いた。

この感想は面白かったと思います。章三郎や「余計者」のようなキャラクターは、矛盾と社会的圧力に苦しむ人々の象徴であるという感覚は私が確かにしました。彼らの行動の複雑さを理解することで、私たちはもっと深く人間もう彼の作品もう理解できると思います。
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